11月16日付総理宛内容証明郵便より引用
第2 我々父子三人が統一カルトによって受けた著しい被害(事件)
書き手はスイスの教諭でもあった妻とともに1988年より10年以上に亘り千葉県富津市にて、スイス国籍者としてアメリカ寄りではなくヨーロッパの教育理念を持つ国際学校「さんび学院国際学校」の設立へ向け尽力し、その学童保育や語学教室等が評判となっていった。だが、妻が癌を患い短い闘病の末に2000年1月に他界したため、学校設立企画に突然の終止符が打たれ、スイスの親類は帰国を迫った。だが、書き手は平家の谷である「祖谷」での平家赤旗の出来事を通して、日本に残ることを決意し、九人の子(七男二女)とともに二年の厳しい審査を経て2002年に日本に帰化。この間、大家族として二度テレビ取材され、子育てで奮闘する内容が放送された。
逮捕に至るまで
ア)透明で純粋な民主主義の実現を目標に掲げて2009年(平成21年)1月に千葉県富津市にて草の根運動「心地よい上昇風(じょうしょうかぜ)― 苦難を乗り越えて国の未来を築く」の看板を出し活動を開始した書き手は、アメリカの日本に対する内政干渉を示す機密文書「年次規制改革要望書」を暴露し、JR君津駅構内でのポスター掲示やパンフレット(添え紙)提供等でその立場を鮮明にし、翌年の2010年5月に上昇風の目的達成へ向け、数人とともに政治団体「全民党」を設立した。
イ)東日本大震災が発生した2011年3月、書き手は原子力発電所の原子炉溶融による放射能汚染の深刻さを見定め、疎遠であった長男夫婦に福島県郡山市から富津市の書き手の自宅に避難するよう呼びかけた。(長男と五男以外の息子は自らの言動により勘当され、絶縁。)
ウ)長男の嫁の父親が政治に太い繋がりを有していること、嫁ともどもにカルトの濃い一面があること、且つその父親がそのカルト関連の仲間とともにテレビ番組「DASH村」を作ったことなどは知らされておらず、書き手は、「長男は不動産屋の娘と結婚した」との認識でいた。(後の2018年10月にDASH村のTOKIO4人は安倍晋三と仲良く写真撮影に応じている。)
エ)だが、息子とともに書き手の家に避難してきた嫁は早々にそのカルト影響を書き手の家族(一番下の子はまだ中学生)に広げようとし、書き手をも配下に入れようと振る舞うようになった。
オ)嫁の叔母に当たる者がそのカルトのリーダー的存在であり、嫁はその者の言葉を無条件に受け入れ、服従していた。
カ)書き手が嫁の支配的振舞いを許さなかったことに不満を募らせた嫁はそのカルトの叔母との長電話を繰り返し、避難先であった書き手の家を飛び出し、書き手に対する極悪非道の誹謗中傷を書き手の地元(富津市、君津市)の近所で広めるようになった。
キ)富津、君津、木更津の三市にて30余年に亘り教育活動をしてきた書き手のその地元にて真っ赤な嘘を広め書き手の信用や評判を著しく損ねた嫁による名誉毀損問題を受け、書き手は千葉県君津警察に相談したが何の助言も無かった。このため、書き手は長女とともに、書き手に関するそれらの発言がカルトリーダーである嫁の叔母から出た根拠のない酷い悪口であること、嫁が以前麻薬に手を染めたことがあり(長男の証言多数有り)精神的に不安定であることや同人が広めている噂が虚偽であるためそれらの主張を受け入れることが無いようにと記した文書を作成し、嫁の潜伏先(君津市内)の近所で各ポストに投函した。
ク)地元富津の浜田幸一がらみの権力構造と距離を置き、透明で純粋な民主主義の実現のために色々と厳しい声を上げていた書き手を千葉県富津警察及び千葉県君津警察は予てより敵視していたようであった。
ケ)この背景から、(キ)の文書配布後に君津警察はこの嫁に被害届を出すようにと働きかけ、親告罪の期限が切れるわずか数日前に嫁が被害届を提出したことになっている。このようにして、皮肉なことに、あの嫁による極悪で根拠の無い名誉毀損に苦しむ書き手に対する名誉毀損被疑事件がでっち上げられ、任意捜査が始まった。
コ)書き手は君津警察による任意捜査に応じていた。そして、漢字の読み書きができないことからその任意の取調べには長女を同伴していた。同じ頃、あの嫁は書き手自宅の玄関先に突然現れ、薄汚い笑を浮かべて「活動できなくしてやる」と言い、去っていった。
サ)君津警察の刑事らが任意の取り調べの際に「質問されたことやそれに対する自分の答えのメモをとってはならないという法律がある」と強調したため、書き手は弁護士にその事実を確認した。そのような法が存在しないこと、刑事らの強調が重大な偽りであることを知り、憤った。このため、次の任意捜査のための呼び出しがあった際に、「前回の主張が真っ赤な嘘であったことが判明した。それに関する謝罪がなければ、今後捜査に応じることはしません。」と厳しく回答した。
逮 捕
シ)2ヶ月後の2013年11月21日、書き手は通勤時間帯に派遣先の会社事務所前の路上で公衆の面前で逮捕され、君津警察署の留置所に収容された。(当時の姓は「平元」(へいげん)。)
ス)後に、書き手に関する逮捕状を請求した君津警察署刑事課課長石井広が裁判所に対する逮捕状請求書に複数の虚偽を記していたこと、及び大阪簡易裁判所から木更津簡易裁判所に異動してきた判事木崎正による逮捕状発付の違法性が暴かれ、逮捕自体が違法であったことが判明している。
セ)草の根運動の活動資金と生活費を賄うために書き手は当時、日払労働者として毎日労働現場の仕事をしていた。経済状況は生活保護受給の現在よりも深刻であり、日々の少ない収入と4ヶ月に一度支給される子ども手当が父子三人の生活費であった。長女百合子(当時25歳)は活動の事務を執っていたため収入はなく、次女未里子は自転車で片道30分の距離にある公立高校に通う高校1年生(16歳)であった。なお、当時木更津に在住していた五男とは一定の繋がりはあったが同人に一貫性はなく、他にも頼れる親類はおらず、また機会の無かった長女は運転免許を取得していない状況であった。
ソ)逮捕の晩、父親(書き手)と連絡がつかないこと、夜になっても帰宅しないことを不審に思った長女が雇用先に電話したことによって娘たちは初めて逮捕の事実を知った。その直後、長女は君津警察署に駆けつけ、当直の警察官らに説明を求めた。だが、君津警察署の署員らは一言も説明せず、父親との面会をお願いする長女に対し冷酷に「会えない」と繰り返したのみであった。
タ)書き手には接見禁止が付され、2歳の時に母(書き手の妻)を亡くして以来父子家庭で育った高校1年生の次女との面会すら許可されなかった。
チ)逮捕の晩、以前書き手が依頼した案件で100対0の完全勝訴を得ることができた弁護士と面会した書き手は面会中にその弁護士に酷く侮辱されたため、また、弁護士をたてる資力もなかったことから、国選弁護人を依頼することになった。
ツ)千葉市のある法律事務所の弁護士が国選弁護人になり、書き手は面会を通して事件のあらすじや問題点、娘たちへの伝言を伝え、後日、同弁護士は長女からも話を聞いた。
テ)書き手に前科前歴が無いこと、住所職業が明らかであり、取り調べに応じていること、逃亡や何かの事実の隠滅もしていないこと、未成年の娘を育て家族を養っていること、勤務先での評判も良いなど情状酌量の余地があることや長女が君津警察による証拠物(配布したチラシやパソコン)の差押えに応じその保管場所を教えたことなどから国選弁護人は初めから「12月11日には釈放されるだろう」と判断し、娘たちに伝えていた。
ト)ところが12月10日、翌日の釈放に向けた準備を進め、長い3週間がその晩に終わると思い夕食の後にも話し合っていた娘たちに国選弁護人からの電話連絡があり、弁護士は「明日、巌さんは起訴されるみたいです。」と淡々と言った。娘たちの喜びは悲しみに変わったが、これまで以上に父と一緒に闘うことを互いに固く約束した。
起訴・逮捕
ナ)翌朝、自宅前で次女を見送った長女がその後の午前9時半頃に事務仕事を開始すると、突然、君津警察署の複数の警官らが敷地入口の「無断立入禁止・ご用の方は〇〇番までお電話を」と記された看板を無視し且つ門扉代わりに張ってあった縄を跨いで活動敷地に侵入し、同敷地の奥にある書き手の自宅に向かって無言で近づき窓から自宅の中を覗くように玄関先にやってきた。そして呼び鈴を鳴らし、長女に対し「署で話が聞きたい」と言った。これに対し長女が「父の差し入れの関係で私は2日に一度は必ず君津警察署に行っていたのに、『話がある・話が聞きたい』などとは一度も言われなかった。だから今取り掛かっている仕事が終わったら行きます。数時間後になります。」と言ったが、刑事らは「今すぐ署に来るように。来ないなら鍵屋を呼ぶ。」と脅迫し、長女が自転車で君津署へ行くことをも許さず、約1時間のやり取りの末、長女は止むなくその覆面車に乗り、君津警察署へ連行された。
ニ)この日、2013年(平成25年)12月11日、書き手である私は千葉地方検察庁木更津区検察庁によって起訴された。事件担当の荒川尚之検事は取り調べの段階から書き手に対し直接、「今回の件はさっぱり分からない」と話し、逮捕の必要は無かったとも明言していた。
ヌ)だが、父親である私が釈放されるはずであったこの12月11日に、文章の翻訳を手伝ったという理由だけで長女までもが共同正犯にされ、君津警察署一階のロビーにて、複数の一般人の面前で手錠と腰縄がかけられ、逮捕された。
ネ)逮捕直後に長女が取り調べ室で二人の刑事らに対し逮捕の不当性を強調していた時、同署刑事課長石井広が入ってきた。長女はその石井に対し憤りをもって「なんで、私まで逮捕する!父を逮捕したことが明らかな不正であるのに。家には16歳の妹が。父子家庭の父と姉を逮捕して、こんなこと、酷すぎる。日本人がすることじゃない!」と強調した。この言葉を受け、あの石井広もまた薄汚く笑い、なんと「俺は韓国人だから」と言い放った。あまりに驚いた長女はすぐに、無言の二人の刑事らを見て「今の聞きました?『俺は韓国人だから』と白状した…。」と三人を順番に見た。空気は固まり、石井は黙ってすぐに部屋を出た。一言も発さなかった二人の刑事らはその後、冗談を言う人ではないとつぶやいた。
同日、長女は千葉県木更津警察署の留置施設に収容され、同じく接見禁止が付された。
拉致、誘拐の影
ノ)この11日の朝、刑事らが自宅前に現れ鍵屋を呼ぶと長女を脅した時、長女は書き手の国選弁護人に架電し予想される展開を尋ね自身の逮捕の可能性を知った。このため、長女は家を出る前に高校に居た次女の携帯電話に何度か架電したが次女が電話に出なかったため、留守番電話に伝言を吹き込み、逮捕の可能性があることや帰宅してすぐに取るべき措置など、姉として妹に最も伝えたかったことを伝えた。そして念のため、その同じ内容をメールとしても次女に送り、送信完了を確認した。
ハ)だが、釈放後に発覚したことは、この時の電話の着信も留守番電話の伝言もメールも全てが警察によって遮断され、次女の携帯電話に何一つ届いていなかったことである。
ヒ)つまり11日、姉からの連絡を何一つ受けずに次女は学校と部活が終わった後の夕方に釈放されるはずの父親が帰って来ないことを痛感しながら自転車で帰宅途中であった。そこへ、二度も後方からパトカーがゆっくり追い抜いて行き、胸騒ぎがした。父親の起訴、姉の逮捕を知らされないまま帰宅した次女は、自宅兼活動拠点(富津市)の敷地入口に覆面車が停車し、男女三人が待ち伏せする光景を目にし、長女(姉)までもが逮捕されたことを、察した。
フ)三人は君津警察署の中里(男)、大出(女)、橋野(男)と名乗り(いずれも刑事課)、次女に対して「お父さんについての話があるから署に来て欲しい」、「荷物をまとめて一緒に署に来て」と言った。
ヘ)次女が「なぜ、悪を働くんですか。逮捕状に根拠はない。」と強調した時、中里は黙ってうなずいた。同時に、「警察署に行けばお父さんに会える」と思った次女は、準備することを了承した。大手は「お姉さんが何を置いていったか分からないので」と言い玄関まで付き添うことを主張したが、その威圧を断り、次女は一人で家に入った。
ホ)「お父さんに会える」との思いから次女は荷物をまとめ始めたが、長女の置き手紙を見つけたため、そこに記載されていた疎遠であった五男(次女の兄)に架電した。五男は、家から一歩も出ないこと、木更津から急ぎ車で向かっていること、到着するまで待つようにと次女に言い、次女は荷物をまとめた状態で自宅で待機した。
マ)五男の到着は君津警察署の三人にとり予想外の展開となり、署員らは一言も説明せずに尻尾を巻いて退散した。
ミ)このように、高校1年生であった次女は警察組織内の者どもによって、書き手が起訴され、長女が逮捕された同じ日(12月11日)に、誘拐されかけた。
ム)2013年(平成25年)12月29日、担当の荒川検事は長女の取り調べ最終日に沈んだ苦い表情で「私だったら起訴しない…、だけど上からの圧力で。」と言い、同じく前科前歴が無く、且つ11歳の時に母を亡くし、次女のために姉以上であった長女をも起訴した。
本件に関して、検察権を単独で行使する独任制官庁の構造が破壊されたことを認める証言である。
メ)公訴提起に伴い長女に対する接見禁止は解かれたが、書き手に対する接見禁止は何の理由もなく最後まで延長され、年末年始が過ぎた。なお、外部との接触が3ヶ月にわたり遮断(接見禁止を含む)される場合、人の理性が崩壊することは心理学的に証明されている。
投獄・判決
モ)2014年(平成26年)1月23日、千葉県君津警察署留置所に勾留されていた未決勾留者としての書き手は突然、一言の説明もなく千葉県警察の車両に乗せられ、無根拠で裁判も判決も無い状態で千葉刑務所に移送、投獄され、3週間に亘り受刑者として扱われた。この間、書き手が判決を受けていない状態で投獄されたことを知った上で千葉地方裁判所は書き手宛の裁判に関する封書を千葉刑務所に送付し、千葉刑務所は同封書と封筒在中の文書に刑務所の受領印を押し、書き手に付されていた番号を鉛筆で書き込んだ。(①警察組織、②刑務所、③裁判所の違法関与)
ヤ)さらに、千葉や東京に寒波が襲来することが気象予報上予想されていたその間に書き手は刑務所に収容され、暖をとることが一切許されず、表で雪が降り積もる中、隙間風の多い古い独房に収容され、冬の衣類も無く接見禁止によりその極寒の環境を身内に知らせることもできないまま昼夜、氷点下の独房に閉じ込められ、肺炎を患うようにと人為的に環境が作られた。
ユ)3週間後の2014年(平成26年)2月12日、書き手と長女に対する判決が言い渡され、放免、釈放された。だが、共に執行猶予付の有罪判決であった。
ヨ)判決が言い渡された日に書き手は千葉刑務所を出ることができたが、同施設が拘置所ではなく刑務所であったこと及び未決勾留の区分ではなく受刑者の区分で収容されていたことは千葉刑務所が発行した「在所証明書」及び千葉県警察本部の答弁書並びに告訴状(安倍晋三をはじめとする10人の被告訴人に対する本年4月11日付告訴状・警視庁本庁はこれを違法に蹴った。)に記載の通り複数の観点から揺るぎない事実となっている。
ラ)刑務所を出た後の2016年(平成28年)2月5日、同千葉刑務所の所長代理として話に応じた千葉刑務所総務部長の太幡淳一は、判決を受けていなかった書き手が刑務所に入ったのは「法務大臣の告知があったため」と証言した。同じく、「中に居る者に暖房の権利は無い」とも発言し、ムン統一カルトのプリンスと呼ばれていた安倍晋三が当時の法務大臣谷垣禎一を介して書き手を判決無く投獄させた上に極寒に晒して収容中に殺害しようと企てその殺害計画を実行したことが表に出た。(④法務大臣の違法関与)
リ)幸い、肺炎を患うこと無く刑務所を出た書き手は、執行猶予期間中に様々な国賠訴訟を長女とともに本人訴訟の形で提起し、違憲投獄事件を立証する公文書を入手した。
ル)いずれの国賠訴訟も絞殺されたため慰謝料は一銭も得ていないが、太幡による(ラ)の証言と入手した公文書とにより、投獄が判決の3週間前であったこと、法的手続きの無いすなわち憲法第31条に著しく反した、違憲投獄であったことが立証されている。(代表的二種類の公文書「在所証明書」、「既決犯罪通知書」は本日レターパック郵便として官邸宛に発送)。
レ)これにも拘わらず、刑務所を出た時、書き手には「務所上がり」の焼印が押され、ともに前科前歴が無く且つ逮捕自体が既に違法であったにも拘わらず、長女共々「前科者」に仕立て上げられた。
ロ)さらに、検察庁が発行する既決犯罪通知書に通常必ず年月日が記入される「刑終了の日」の欄が書き手に関する同公文書の場合それは空欄の状態で作成され「半永久型の刑を受けた者」とするために、そして書き手の復帰を永久的に阻止するために関係機関の間で今なおこの既決犯罪通知書が出回っている。(⑤検察庁の違法関与)
ワ)判決言渡しに伴い帰宅することができた書き手と長女はその日(2月12日)に次女(長女の妹)から話を聞き、上述の2013年(平成25)12月11日の誘拐未遂事件を知った。このため、二日後の2月14日に書き手は長女とともに君津警察署刑事課へ行き、次女が誘拐されそうになった事件についての誠意ある説明を求めた。刑事課長の石井広はただ黙り込んだため、父親として怒りが増した。
ヲ)しばらくの間、進展は無かったが、ようやく石井の部下であり当日自宅前に現れた三人の一人でもあった橋野という男刑事が立ち上がり、話に応じようと出てきた。だが、彼が一言を発する前にあの石井は彼を背後から無言で鷲掴みし、連れ戻した。課長のこのパワハラにより、上述の誘拐未遂事件の真相について刑事課の皆が沈黙を選んだため、書き手は警察の不正を確信した。
ン)このため、三日後の2014年(平成26年)2月17日(月曜)の午前9時半頃、書き手は長女、次女及び五男とともに君津警察署へ行き誘拐未遂事件について警察が説明責任を果たすよう警察署の1階受付にて厳しく迫った。3時間半の怒鳴りを受けてもなお警察は事件について一切、何も話さなかったが、この峻厳の叱責によって、警察組織の服務の宣誓を踏みつけて特定のカルト組織の会員になり、それらのカルトの規律をわが国の法よりも重視し、カルトの利得のために動いている警察官が君津警察にも複数人いることが警務課長(ひろかわ)の証言とともに判明した。
■ 違法逮捕誘拐未遂違憲投獄事件後の代表的関係者の異動と昇格(左は事件当時の役職)
1 . 君津警察署刑事課課長 石 井 広 →
千葉県警察本部刑事部機動捜査隊(隊員)
2 . 君津警察署副署長 佐 々 木 幸 司 →
千葉県警察本部刑事部機動捜査隊(隊長)
3 . 富津警察署署長 蒔 田 光 弘 → 退 職
4 . 君津警察署署長 浪 川 悦 男 → 退 職
5 . 木更津警察署署長 市 川 元 澄 → 退 職
6 . 富津警察署副署長 菅 原 右 光 → 退 職
(書き手の父が英語教師であった時に散々世話になった人物で且つ書き手の長男に対し逮捕中に書き手が死亡したことを示唆する話をした者)
7 . 木更津簡易裁判所判事 木 崎 正 → 大阪簡易裁判所に戻る
(逮捕状、勾留状、接見禁止を違法発付した人物)
8 . 千葉地方検察庁木更津支部長 西 村 圭 一 →
千葉地方検察庁 (担当検事に圧力をかけた人物)
9 . 法務大臣 谷 垣 禎 一 → いわゆる自転車事故で政界引退(HP「仇討嘆願」公開直後の2016年8月より事実上夜逃げ中)
1 0 . 内閣総理大臣 安 倍 晋 三 → 2022年7月
被害者の怒りによって死亡
※書き手と長女の逮捕時の政治団体全民党内の役職はそれぞれ、会長と事務局長であった。
2014年(平成26年)2月17日に君津警察署内で発覚した事実を含むこの一連の事件により、もはや、ムン統一カルトが重ねてきた多くの拉致事件に、警察組織に潜り込んだ同カルト会員が関与しているとしか解釈できない事態となっている。