漂 流 罪 状
いわゆるキリスト教の教会やグループはもはや、メシアの贖いによる新しい契約に碇を下ろしていない。会員は未熟のままで、霊的栄養失調が続いている。何百年もの間その責任者全員が、神の明確なお言葉に反して行動し、生きてきた。そしてそれは、近年のエキュメニズム動きによって極限に達した。責任者らの個人的な罪と過ちにこの場で言及することはしないが、その私的罪過の他に、次の十通りの広範囲に及ぶ深刻な傷が明記されている。これらは、教会組織に対する信者の最終的な「離絶」を招く。
一、 爾(なんじ)らは存在感のある特別な建物で威張っている。だがこれらは、中央集権的仕組の工具であり、同僚牧師との張り合いを高めるものであり、良き知らせの精神に逆らうものである。そして、人間的な支配欲求を満たすものであり、とりわけ、神の民が一体性へ戻ることの大きな妨げとなっている。
一、 隣人愛が根本内容であるにも拘わらず、爾らは会員リストを作成し、「外の人」の必要から目をそらしている。そして爾らは、「正式に中の人」と、教会の会員番号を持たないものの同じ信仰の従順の道を歩んでいる人々とを区別し、それのみで彼らを差別している。これは全て、新しい契約の内容に反している。そして、唯一の神の永遠の構造に対する爾らの故意且つ積極的な反逆と見なされる。
一、 わがメシアの御姿と御活動とは著しく異なり、爾らは崇高さと肩書に飢えている。爾らは神の王国における様々な働きとその諸分野を身勝手に位置づけ、順位を定めていることにより、これらの分野の霊的構造とそれらの密な相互関係を破壊している。爾らは神の御前で奉仕をしたい人々を妨害しながら、自らの埋まったスケジュールによって疲労困憊している。これにより、神の民は互いの力になることによって本来進み得る真の一体性への道を一向に進むことができず、新約の内容に反するこれらの振る舞いによってつまずいている。
一、 爾らは短い勉強の期間を終え「先生」と呼ばれている高がそれで、神の民を己に従わなければならない家畜の群れのように扱っている。無学者を見下すその行為によって爾らは、キリスト者に上下の二階級性があるとの理論を受け入れ広めているのであり、これにより、重い罪を背負っている。信仰の民は何世紀もの間、この理論によって縛り上げられ、霊的に熟すことができなかったばかりでなく、再び唯一の民へ、すなわち使徒行伝においてそのつぼみを確認することができるにも拘わらず、その「民成」の実現へ進むこともできなかった。この打撃は極めて大きいが、全ての教会において頑なに否認されている。
一、 パウロのように実際に手作業や労働を通して報酬を得ることを嫌がりながら爾らは献金を強調し、経済を教会の日々の歩みの中心的課題に据えている。このように爾らは、与えることが得ることよりも幸いである、との霊的深き秘密を信者が心から受け入れるようにとお働きになる聖霊様を悲しませている。なぜなら、全ての力、能力そして手段をヤーウェー様に提供することが著しい恵みの唯一の道である。そして、信者個々人の資力に対する爾らの独占的姿勢は、同一の信仰の家族であるキリスト者が宗派を超えて互いの力になることのさらなる妨げである。
一、 主の僕達、端女達の多種多様な霊的必要に関し、爾らは粗雑な考えと姿勢でいる。そして、日曜毎の短い説教と週一度の聖書学び会によって人の霊的歩みが整えられると思い込んでいるとは、甚だしい勘違いである。或いは、信仰の民が薄暗い中よろめきながら進む方が、己の立場において安心できると感じているのか。爾らが与え得るよりもはるか多くの霊的糧を、信仰の民は必要としている。これは、女性が御言葉に反してますます牧師に任職することの最大の要因でもある。したがって、爾らはその自己中心的幼稚な考え方や姿勢を離れなければならない。そして、神への畏敬をもって奉仕分野の多面性と働き、すなわち使徒パウロが人体内の計り知れない機能に例えているこの諸分野を追求することができるよう、努力しなければならない。
一、 人間的にこしらえた説教と色鮮やかなエンタメプログラムによって爾らは人の感動を求めている。ゆえに、聖霊様の肯定が無いのであり、最終的に実の成らない結果を招く。爾らは説教内容を様々な所からかき集め、比喩的又は学術的に組み合わせ、仕上げている。つまり、皆の糧となる霊的内容を誠意をもって提供することよりも、爾らはこのようにして自己を披露している。そのなかで爾らは、爾らの言葉選びや複雑な言い回しを十分に理解することができない一般信者を無視し、主に、社会的地位のある参加者に気を向けている。そして、宗派の一代表者として自信をもって振舞う爾らは、キリスト教団体同士に一体性が無い、というこの無残に開いた傷口に一切言及しない。ヨハネ第17章に記されている来たるべき王わが主イエス・キリストの祈りを爾らは軽んじている。そして沈黙を貫き、さらには切り離された信者同士の状態が教会伝統の豊富さの表れであると正当化し、責任を完全に放棄している。
一、 爾らは第1コリント3章1~10節の箇所を己の聖書から切り抜いたようであり、人間称讃を行っている。「信仰における模範」と爾らは話すが、人間に関するそのような強調が必ず信者同士の分裂、そして偏った霊的進みを結果とすることを、爾らは理解しようとしない。御言葉の一体どこに、似たような内容が記されているのか。爾らはそのような超越的大先生や創立者の肖像画や写真までをも壁に掛け、それらの伝記を美化し、神の民全体の将来よりも、爾らの団体の過去に目を向けている。
一、 爾らは爾らの集会の詳細を異常に強調している。これこそが、礼拝と呼ばれている集まりに初めて参加する兄弟姉妹を混乱させている。なぜならそれらのものは結局全て、集会進行という形式に関するものに過ぎないばかりでなく、その意義はあるリーダーの個人的決定内容に基づくのであり、決して御言葉の内容と並列することができないのである。特に、その宗派の告白というものは過剰に重要視され、他宗派の告白は必然的に格下げされる。神の民が一体性への道に入るにあたり、どれほど多くのつまづきの石が存在することか…、全てを、撤去しなければならない。
一、 イスラエルの歴史における霊的内容への爾らの取り組みが著しく欠如していること、いや、ほとんどの場合全く行われていないことは、「旧約聖書」と呼ばれる書物の軽蔑を結果として生じさせるばかりでなく、爾らはイスラエルの民と「ユダヤ影響」に関し偏見を持ち、極めて不器用で幼稚である。誠に、唯一の神との関係が契約によるものであるとの根本認識だけでなく、唯一の神に対する畏敬の念を持つ人々の壮大な民意識、さらには、預言者が著しく強調したように人類史が終点に向かい進んでいるとの姿勢から遠ざかっていることが、爾らと爾らの集まりの致命傷である。