11月16日付総理宛内容証明郵便より引用
第1 カルト組織による超法規的振舞いの経験
カルト組織とは知らずに知人の強い勧めで近づいた者の一人として驚愕の経験を積んだ書き手は、宗教やカルト組織が社会にもたらす影響と危険性を分析するようになり(現在「宗教鑑識家」)、各国の法を軽んじ社会通念からかけ離れたそれらの実態を分かり易く打ち出している。
1) 被害者救済で目の敵に
大学を卒業後にスイス改革派の牧師に就任した書き手は、1970年代にスイスやドイツにて大きな社会問題となっていたムン統一カルトによる拉致被害に遭った家族の力になるため、救済目的の専門家グループであったスイス国立教会を中心とするキリスト教会牧師連盟に加わり、カウンセリングやカルト暴き教育、犯罪手口の周知などを行っていた。また創立者ムン・ソンミョン(文鮮明)が1981年(昭和56年)に世界大戦を引き起こそうと企て、組織を挙げて武器調達に全力を注いでいることをス イスの情報誌を通して知った(この情報誌は、国民の大半がキリスト教に根付くスイスにて、スイス国立教会を始め複数の宗派の牧師が連携し、牧師活動を通して得た専門の情報や課題、また事件捜査のために当事者から得た情報を牧師同士で共有するためなどに出版されていた専門誌であった)。そしてとりわけ、ムンが複数の発言で自分自身を中心人物に据え、且つ、ムン統一カルトがキリスト教的特徴を持った教会(団体)であるかのような印象を与えたことでキリスト教に真っ向から歯向かったことを厳しく指摘し、位置付けた。聖書の内容と創立者ムンの発言との極端な隔たりを示すことによってこれを実に分かり易く及び疑いなく強調することができたため、並びに、ヨーロッパ や日本でムン統一カルトによる青年拉致事件が数多く発生していることを受け日本国内でも警鐘を鳴らし続けたため、書き手は後にムン統一カルトの攻撃を受けることとなった。この韓国カルトの他にも当時のスイスの大都市では、影響範囲を非常に活発に広げつつあったインド系の新興宗教が多数存在していた。特にヒンズー教のヨガ関連団体が増え続け、「TM」(Transcendental Meditation)のように若い世代に噛み付いていった。
国立教会の牧師として書き手はこれらの若年被害者のカウンセリングをも行ったが、その後、ムン統一カルトの被害者に絞る進みをとった。
2) ホバート・フリーマン博士を中心に
1975年からの数年間、書き手は千人以上の会員を持つアメリカインディアナ州に本部を置く「Faith Assembly (Glory Barn)」組織のヨーロッパ制覇のための軸となっていたドイツ人家族との知人関係にあり、同組織の振舞い、すなわち訪問やメンバー宅への招待、集まりへの参加、様々な出版物やオーディオ手段による洗脳が何気なく開始されていったことを目の当たりにした。書き手が実際にインディアナ州へ行った際には自然に囲まれた場所で部屋が用意されたが、移動手段が無く身動きの取れない中で、リーダー Dr. Hobart Freeman(ホバート・フリーマン博士)の説教を録音したテープを毎日何時間も聴くことが半ば強制され、組織の教えや方針をひたすら勉強することが求められ、一定期間軟禁までされた。リーダーに次ぐ存在であったBruce(ブルース)という名の男はベトナム戦争体験者であり全会員の前で「俺は10通りの方法で人を殺すことができる」と強調し、リーダーを絶対的存在として認めるための恐怖を広めていった。会員では無く参加者であった書き手との人間関係を深めながら三番目の存在Steve Hill(スティーブ)がある日突然、「この教えによる特別な近さを感じる。ヨーロッパ担当になるための訓練を受けるように」と書き手に迫った。だが、組織を中から見るようになり教えの偏りや行き過ぎた観点と言葉の暴力を問題視し指摘するようになった書き手は同組織から煙たがられるようになり、早々に縁を切るに至った。
このカルト組織によって何十人もの若い人が死亡したことが発覚したため、同組織は多くの裁判を抱えることとなり、責任者Hobart Freemanは裁判中に死亡し、Broosはやがて白血病で死んだ。
3) 激倒失神現象を求めて
1997年(平成9年)、主にカナダのトロント市から世界に知られるようになった「激倒現象」(リーダー的存在の手の動きによって参加者が実際に倒れ失神する霊現象)を起こす力を持つ一人としてアメリカでも知られていた Brownsville(ブラウンズウィル)教会のいわゆる牧師 Dick Reuben(ディック・ルーベン、アメリカ人)が日本に招かれ、日本の教会の上層部の牧師ら数千人が千葉県浦安市にあるヒルトンホテルで開催された数日にわたる大会に出席した。その頃千葉県に在住していた書き手も招待されたため、知人牧師とともに参加した。多くの参加者がその激倒現象を体験したいと求めていた。そのゲストスピーカーの彼は日本人と在日朝鮮人牧師を前に説教し、プログラムが進行した。その最中、実行委員会の数人が、会場満席のため会場後方ドアそばに立っていた書き手の感想を聞きに来た。それに対する書き手の落ち着いた厳しい指摘を受け、同人らはゲストスピーカーであった Dick Reubenと同人のボディーガード(アメリカにて何人もの有名政治家の護衛を担当した人物)と連絡を取った。そして突然、そのボディーガードが書き手の背後から片手で書き手の喉元を全力でつかみ息をすることができなくなった書き手はそのまま床に叩きつけられた。すぐに実行委員会の10人前後のいわゆる牧師らも一斉に加わり、書き手を暴力的に会場から引きずり出した。この時、書き手は人生の最期を覚悟した。その同じ時に、実行委員の一人の牧師が「暴力はやめましょう!」と大きな声で言い、他の牧師らは暴力を止めた。破れたスーツで横たわる状態にあった書き手は目ですぐにあのボディーガードを探した。そして牧師らの間に、胸の高さで両手でナイロン紐を張った形で構えるあの男の姿があった。
このカルトに殺されかけたこの日のことは今なお脳裏に焼き付いている。その後、実行委員会の牧師らは土下座をしながら「叩いてください」などと言い、この事件や牧師らの名前を表に出さないようにとしきりに願いった。暴力を受けていた最中から書き手は他の出席者やロビーに居た別の客人にも聞こえるように何度も誰かが警察に通報するよう叫んだが、誰一人、警察に通報せず、事件は葬られた。
上記2)、3)の両組織も示すように、カルト団体はいずれも縦関係が非常に厳しく、権力絶対(中央集権)の構造が特徴的である。
4) 新世紀に向けて
1999年(平成11年)、書き手は「父性の喪失」「毒された民主主義」「美文と虚栄」「暴力的信仰」のテーマでGHQの負の遺産とカルト宗教問題に焦点を当て、「侵略的権力的な信仰が再び全体主義政治組織に道を開くのも、時間の問題である。この方向に沿って近い将来、西洋が世界支配のために率先して突然民主主義の夢に終止符を打つであろう兆候が明らかである。(中略)日本国民は戦後外国による干渉と占領による大きな苦痛を経験したため、今、勇気を持ち、決意を堅くし、表に現れない暴力的精神論に特別な警戒を払いながら、様々に偽装を凝らした西洋の世界に対するこの侵略的行為に対し、先頭に立って、立ち向かわなければならない。」と記したA1寸大のパンフレットを東京駅前や有楽町で広く配布し、日本で生まれ育った西洋に詳しい者として都内で度々思想的な内容を打ち出した。
先日のアメリカ中間選挙直後のバイデン大統領は再び「我々が民主主義である」と強調したが、現実は、アメリカが巨額や武器の投資でウクライナに以前から存在するナチス流れに幕裏で著しく加勢していることであるため、23年前に述べたこの言葉は今、まさに起きている。
5) 躊躇なき監禁
2002年(平成14年)に日本国籍を取得した数年後の2009年(平成21年)に、未成年者であった書き手の七男が失踪したことがあった。書き手は住民登録地であった富津市の富津警察署に対し息子の捜索願を出したが、その後、警察からの連絡が一向に無かったため、同署へ行き、話が早々に警察組織と闇組織の関係についてのものとなった。妙なことに話は初めから同署内の半地下室で行われ、かつ、納得のいかないものであったため、書き手はその話を終わらせて警察署を後にしようとした。だがその時、担当警察官は仲間を呼び、書き手が部屋を出ることを完全に阻止し、書き手をその半地下の部屋に監禁した。突然の行き止まりのなか、素早く行動せねばならないと感じた書き手は反射的に直ぐに窓を全開にし、その警官らに対し「今、この振る舞いをここから周辺住民に大声で訴える」と強調した。頭に血がのぼりつつも警官らは引き下がらざるを得なくなり、書き手を解放した。数日後、その実行犯の上司に当たる二人の警察官が書き手の自宅に来、謝罪した。
6) 検閲に屈することなく
2012、2013年アメリカ主導の世界征服陰謀(New World Order)に反対するために書き手は2012年(平成24年)秋より4ヶ月にわたり協力者と共に旧GHQを囲む無言行進「召電マーチ」を実施した。そして、固い史実をもってGHQが欧米のカルト組織の拠点であったことをその際に配布した冊子(「ほさきマニュアル」)を通して史上初めて打ち出した。また、同年12月に政権が自民党に戻ったことを受け、総理としての安倍晋三による検閲があったなかで、2013年(平成25年)1月配布の同冊子に、安倍晋三とムン統一カルトとの繋がりを厳しく非難する記事を作成掲載した。このため、ムン統一カルトもこの極めて重い史実を隠し通すことができなくなった。